6月 052017
 

ここ数週間、(突然ですが)私の講師としての
アイデンティティに関わるような
心の動きがありまして。
ブログで好きなことを書いて良いということになっているので、
渡りに舟とばかり、備忘録方々、
教育に関する(青臭い)考えを、
私の原点として書き留めてみたいと思います。

しかも、誰に頼まれたわけでもないのに、
まさかのシリーズ物です。
以下、徒然なるままに書き付けてみたいと思います。

指導者は、生徒に物を語る者です。
受験塾の指導者は、受験を通して、生徒に物のあり方を説く者です。

また、指導者と生徒という動かしがたい関係性から、
指導者は、授業の内外を通して、
常に生徒に範を垂れる者であることが望ましい。
背中で物を語れるようになることが、
指導者の一つの目標であると個人的には思っています。

そこで、指導者の心構えとして、

「認める」、

ということが大事なんじゃないかと思います。
また、「認める」、という動詞の対象・目的語は、
指導者たる自分を、であり、
指導対象たる生徒を、であろうと考えます。

指導者たる自分を「認める」、ということは、
むしろポジティブな側面ではないことが多いかもしれません。
私が考えますに、生徒と心無く(うらなく)向き合うために、
例えば、指導者は自らの過ちを詫びることができなければなりません。

あってはならないことですが、
授業内容で、いきおい、誤りを伝えてしまうことがあります。
その原因が勉強不足であれ、単なる言い間違いであれ、
「この前の~は、間違っていました。ごめんなさいね。」
といえることはとても大事だろうと思います。

こんなことは当然だろうと思われるでしょうし、
私も全くその通りだと思います。
ところが、なぜかこれができない先生様は世にたくさんいらっしゃいます。
当塾の話ではありません、念のため。

さて、上記のように、誤りを認めて謝罪することは、次回述べますが、
生徒をきちんと一人格として「認める」ことに由来するものでしょう。
こうしたことができなくなったら、
指導者としては欠格だろうと思います。
どれほど優秀な頭脳を持っていても、
その活用法は指導者としてではなく、ほかのことであるべきでしょう。

そして何より、
指導者は、自身の、人としての未熟さを
「認め」られることが大事なのではないかと思います。

未熟だから、未完だから、
より上を目指して錬磨していく。
そうした姿勢が、生徒に見せるに足る、
物語る背中になるのだろう思うのです。

高校受験部統括 野中

 Posted by at 11:57 AM

Sorry, the comment form is closed at this time.